<< 『迦陵頻伽』爆誕 | main | 『迦陵頻伽』ソロ/リード完全ファイル >>
『迦陵頻伽』全楽曲解説

2016Kalavinka_LNbyMTB.jpg

 

アルバム『迦陵頻伽』を

楽しんでくださっている皆さん、

そしてこれから手に取ろうと

思ってくださっている皆さんに

心からの感謝を込め、お礼に代えて

『迦陵頻伽』の各楽曲を

より楽しんでいただくために

全楽曲の解説文をしたためてみました。

すでに世に出ているメディアの

インタビュー等と重複する部分も

多々ありますが、回答と解説で

微妙に異なる箇所を

楽しんでいただければと思います。

また、この全文は

公式嗜好倶楽部『式神倶楽部』の

会報誌に掲載された

メンバー全員による楽曲解説の

瞬火の解説を抜き出して加筆しています。

式神(会員)の方で

すでに会報誌をお読みの方は

「あ、ここちょっと言い回し変えやがった」

という部分もお楽しみいただければ幸いです。

 

なお、ブログの書式を

自在に操る能力がないため

ちょっと読みづらいかと思いますが

愛か情で乗り切ってください!

 


 

 

迦陵頻伽 【かりょうびんが】

 

卵の中にいるときから絶世の美声が聞こえると言う、半人・半鳥の伝説上の生物“迦陵頻伽”が卵から孵る瞬間を描いた楽曲です。陰陽座にとって“迦陵頻伽”とは言うまでもなく黒猫という歌い手の存在を指していますが、陰陽座が誇る“迦陵頻伽”が持つ声の魅力を余すところなく切り取った1曲で、異国情緒と東洋風イメージが混在したメロディとシャープなリズムの融合は、陰陽座の音楽性をまたさらに拡げられたと自負しています。いわゆるヘヴィメタル然としたオープニング曲ではありませんが、こういう音楽性を呑み込んでも微動だにしないのがヘヴィメタルである、というのが僕たちの変わらぬ信念です。この「迦陵頻伽」の展開の中では、まず卵の中にいることを表現したイントロのSE部分があり、楽曲が始まってからゆっくりと孵化していく、というイメージですが、陰陽座の活動全体になぞらえると、これまでの17年/12作という時間はまだ卵の中にいた状態で、このアルバム『迦陵頻伽』でようやく孵化し、今まさに翼を広げんとする…というイメージだとも言えます。「孵化したら何者もいない孤峰に独り居た」という心象風景を描いていますが、なぜか声だけが聞こえてくるのでその主を探すも、陰陽座と共に歩んでくださるファンの皆さんと“同じきもの(一つの存在)”として一緒に孵化していて、一心同体であるが故に、声はすれども視界には入らなかっただけ、という皆さんへの深い親愛の念を込めています。

 


 

 【らん】

 

地上に舞い降りた“迦陵頻伽”が高らかに歌い始める、というイメージがピッタリの、陰陽座流“ド真ん中への直球”としか言いようがない楽曲。このリフ、この疾走感、そしてこの高揚感…こうでなくてはアルバムが始まらない!という説得力に満ちていると思います。「迦陵頻伽」での伸びやかさに力強さと斬れ味を加えた黒猫の歌唱は、まさに僕がイメージした通り、いやそれ以上の “鸞”を体現するものです。“鳳凰”と並ぶほどの存在でありながら(日本では)その知名度は低く、また“鳳凰”が年月を重ねることで“鸞”に成る、とも言われるこの“鸞”のイメージが、まさに現在の陰陽座を象徴すると思っています。“鳳凰”(と“龍”)を守護神とする陰陽座の、年月を重ねた今現在の姿は“鸞”、というような感じです。歌詞の中でも、明確に陰陽座の基本理念などが歌われています。並ぶ存在という意味で、過去の楽曲「鳳翼天翔」とまさに“並ぶ”ような楽曲、ということを意識して作りましたが、またひとつ陰陽座のメタルアンセムが出来上がったと確信しています。同じくそれを意識しながら構成したという狩姦の舞いあがるようなギターソロも、まさに“鸞”そのもの!という出来映えです。

 


 

熾天の隻翼 【してんのせきよく】

 

この楽曲に満ちている怒りの感情は、「不倶戴天」「天獄の厳霊」という楽曲に込められていたものと同じ種類のものですが、それが具体的にどういうものであるかは言葉では説明しません。してしまうと、せっかく音楽という形にした甲斐がありませんし、この曲の歌詞を見ても何のことかピンとこなかった方を言葉で納得させてしまうのは、思想の押しつけになってしまうと思うからです。一目見て理解できる方は、たまたま僕たちと同じ気持ちを普段から抱いていた方であり、ピンとこない方は、たまたま今までこんなことを考える必要もなかった方、ということですので、そこに恣意的な力を加えるのはフェアではないという判断です。ただ、同じ気持ちを共有していただける方は一緒に拳を突き上げながら血の涙を流しましょう。さて、現時点では「不倶戴天」「天獄の厳霊」の流れに於ける完結編だと位置付けているこの「熾天の隻翼」は、新たに導入した全弦1音半下げチューニングによるヘヴィなリフとアグレッシヴなリズム、シンフォニックなアレンジ、そして何より黒猫の、“本当の意味で審判を下す権利を持つべき者”を代弁した狂おしくも神々しい歌声とが絡み合う、至高のメロディックパワーメタルに仕上がったと思います。そして、勢いで押すだけではなく緩急を付けながら楽曲を鼓舞する誠さんのドラムには、魂が震えます!歌詞の中には前述のシリーズ楽曲と比較しても極めて強く厳然とした言葉がちりばめられていますが、この言葉を向けられるべき存在に、これらを非難するに足る一片の余地も僕は認めません。過失ではなく故意に奪い損なったものを等価で弁済せずして償いなどできるはずがないからです。

 


 

 【やいば】

 

“何かを守るためだけに刀、あるいは強い意志を帯びる”ということの意味と意義を歌った楽曲。この場合の“刀”とはもちろん武器としての刀剣という意味だけに限らず、傍若無人な外的障害から何かを守る意志、という内面的なことも含めた力全般の象徴です。努めてシンプルに説明すれば、自分や自分の大切な人に危害が加わりそうになったとき、「ご自由にどうぞ」と言える人はそうそういないでしょう。当然、危険にさらされたその対象を守るという行動に出るはずです。そのとき、その守るという意志を言葉として発するのか、実力として発動させるのか、いずれの場合もいざというそのとき以外は、その“意志の力”は心という鞘に収めておきたいですね、という内容です。楽曲的には、安易に和音階に頼らない陰陽座があえてここまで和音階をフィーチャーすると、これほどまでに狂おしくキャッチーなものが出来上がるという好例ではないでしょうか。疾走するリズムに乗って雅やかで力強い歌声を響かせる黒猫の圧倒的な歌力(うたぢから)に惚れ直す1曲ですが、歌いこなすのは難しいとは言え、歌うのが楽しい曲なのは間違いありませんので是非バンドでコピーして楽しんでみてください。カラオケでも歌ってほしいのは山々ですが、昨今の厳しいカラオケの楽曲選定基準に於いては、タイアップ楽曲でもないこの曲が選ばれる可能性は極めて低いでしょう…残念! ただ、何のタイアップもないのにここまでキャッチーな楽曲がシレっと収録されているところが陰陽座らしさであり、この『迦陵頻伽』というアルバムの一筋縄ではいかないポイントではないかと思っています。

 


 

廿弐匹目は毒蝮 【にじゅうにひきめはどくはみ】

 

「22匹目がマムシだったらどうだと言うのか」と言いたくなるタイトルだと思いますが、これは“確率”や“統計”というものの中にある不確定・不安定な要素について歌った楽曲です。といっても、統計学などに疑問を呈する意図は一切ありません。単に、数字として出た結果を僕たちが受け取るとき、どういう風に捉えれば良いか迷うことがありますよね、というだけの内容です。「この茂みから100回に1回、もしくは1%の確率で毒蛇が出る」と言われたとします。人によりますが、これは概ね「ではこの1回は大丈夫だろう」と思える確率だと言えるでしょう。しかし、確率1%が持つ本当の意味は“100回やれば必ず1回出る”ではありませんし、逆に“100回やるまでは出ない”という保証もまったくありません。そういうときに限って、中途半端な“22回目”くらいのところで出たりもする…ということをなぜ歌う必要があったのか分かりませんが、ワーミーペダルを活かした刺激的なリフや、ヘヴィなのにメロディアスで妙にミステリアス、というこのような楽曲が出来る確率はちょうど1%くらいで、21曲分のボツアイデアの後にこれが生まれた、という仮定でどうでしょう。それはそれとして、この曲の招鬼・狩姦両選手のギターソロは“毒蛇感”満載でとても素敵ですね。

 


 

御前の瞳に羞いの砂 【おまえのひとみにはじらいのすな】

 

“砂かけ婆”という超有名妖怪がいます。「森や神社の傍らから、砂をパラパラと投げつけてくる老婆の妖怪」ということ以外何も分かっていないそうなのですが、こういうときこそ僕の有り余る想像力の出番というわけです。“なぜ砂かけ婆は道ゆく人に砂をかける必要があったのか”、をオトメ心全開で想像してみた結果、「若い頃に愛しい人と再会の約束をしていたが、その人が戻ってきたとき老いさらばえた姿を見せたくないので、誰か来るたびに目つぶしのつもりで砂をかけている」という結論が出たのです。それが待ち人かどうかを確認してから投げたのでは間に合わないので、誰彼構わず投げつけている、というわけです。そんなたくましい想像を骨太なハードロックへと仕上げたのがこの楽曲。陰陽座にしては珍しいストラトキャスターによるエッジの効いたリフと軽快なリズム、黒猫による“ロック、されど乙女”な歌により、想像したよりも遥かに格好良くゴキゲンな楽曲になりました。そして狩姦のギターソロがめちゃくちゃ良い! キャラクタライズという意味でのそれは完全に水木先生のものですが、音楽に於ける“砂かけ婆”という意味では金字塔ではないかと思っています。他にある!という場合は、ぜひ教えてください。

 


 

轆轤首 【ろくろくび】

 

「飛頭蛮」(ろくろくび)という過去の楽曲との関連を想像された方も多いと思われるこの「轆轤首」(ろくろくび)。もちろん、関連があるも何も「飛頭蛮」の直接の後日談であり、ある意味アンサーソングというような内容の楽曲です。女房に浮気され逃げられてしまった男の首が抜け、未練がましく飛んで女房を追いかけるも撃退されてしまうのが「飛頭蛮」のお話ですが、その逃げた女房があっさりと男に捨てられ、身勝手にも元夫が自分を迎えに来てくれることを“首を長くして”待っている、というのがこの「轆轤首」の物語です。余りに不埒で貞操観念の薄いこの女房殿の心境を、黒猫が巧みな“演技力”で歌い上げてくれました。楽曲自体に後ろ暗いイメージがまったくないのは、不倫や不貞を平気でやる人の心理は“自己の全肯定”というもので成り立っていると想像するからです。他人から見れば薄汚い不貞行為も、本人の中ではキラキラと煌めく美しい恋でしかないのでしょう。僕にとってそういう行為(と存在)は、まさに幻想(ファンタジー)の中のものなので、想像し甲斐がありました。途中と最後のジャズ風味のパートで「飛頭蛮」のメロディが出てきて「おっ!」となった方は、なかなかのベテラン陰陽座ファンと言えるのではないでしょうか。それはさておき、10年以上前からダンスナンバー的な楽曲をやってきていますが、未だにこのイカしたダンスナンバーを平気で演れる陰陽座というバンドを心から誇りに思います。

 


 

氷牙忍法帖 【ひょうがにんぽうちょう】

 

「卍」「神鳴忍法帖」に登場する、強すぎていくら戦っても負けることのない無敵の女忍者を主人公とするシリーズの最新作(?)です。「神鳴忍法帖」では修羅の道を歩む己の過ぎた力への虚無感を嘆き、「卍」ではその修羅を血で染める戦いに心を埋没させたこの女忍者が、今回の「氷牙忍法帖」では、その憂いの根源である、自らに指令を下す忍者組織への反逆を決意する心境が描かれています。恐らく彼女にとって最後となるその戦いの模様は、さらなる別の楽曲で描かれることになるでしょう。「その話、まだ続くの?」という突っ込みは全身全霊で無視します。なぜなら、僕はこの女忍者の歌を唱っている黒猫の歌唱が堪らなく好きだからです。この「氷牙忍法帖」での歌唱も、超絶すぎて氷が爆ぜそうですね。これはごく個人的な好みの話ですが、こういうメロディック・スピード・メタルという感じの曲を男性が歌う場合は勢いのみでも十分格好良いと思うのですが、女性が歌うならしなやかさや艶が絶対に不可欠だと思っているので、この曲をこんな風に歌える黒猫こそ、まさに無敵の女忍者だというのが僕の見解です。ちなみにこの曲は狩姦選手の長尺忍法(ギターソロ)も炸裂しまくっていますが、これは本当に聴き応え満点のギターソロだと思います。テクニック云々ではなく、構成美という意味でも狩姦忍法の集大成と言えるでしょう。ちなみに「無敵の女忍者が組織に反逆とか、中二かよ」というご意見に対しては、「僕が忍者にハマったのは小四なので、中二ではなく小四」とドヤ顔で答えます。

 


 

人魚の檻 【にんぎょのおり】

 

愛するがゆえに死が二人を別つことを容れられず、人魚の肉を黙って食べさせ妻を不老不死にしてしまった男と、不老不死になってしまったことで永劫の苦悩と向き合わねばならなくなった女の、狂おしくも愚かで“哀しいほどにズレた愛”の物語。愛が深いと言うならば、伴侶を看取る強さを持っていなければならないということに気づけない程未熟だった男が招いた悲劇です。「不老不死の身体で人間の世界を生きるよりも、人魚という存在になって永久に水底に棲む」ことを選択した妻の憤りと嘆きを黒猫が見事に描き出しています。この楽曲のテーマは“ズレた愛”ということで、歌詞の面では久しぶりに手の込んだ仕掛けをしているのですが、珍しく答え合わせができる表記になっていますので、是非歌詞カードを見ながらサビの歌を聴いてみてください。ズレた男女の歌がそのままそれを総括するような一節を紡ぎ出すという、あぶり出しのような仕掛けです。僕はこのような仕掛けを他に知らないので、ひとまずは極めて斬新な作詞手法ということにしておきたいと思います。テーマとしてはもっと大作的な尺の長い楽曲にもなり得たものですが、この「人魚の檻」では目眩く感情の渦を必要最低限の尺に凝縮/濃縮する、ということを自分に課してみました。結果としてこの物語を7分に収めることができたのは、楽曲を長くするよりも短くすることのほうが遙に困難であることから考えても成功と言えると思っています。

 


 

素戔嗚 【すさのお】

 

素戔嗚尊(すさのおのみこと)を研究者による分析を借りて説明するならば「三界(現代的解釈だと“世界中”でしょうか)を旅する異貌の神で、無垢と残虐と智慧を併せ持ち、死と再生、エロス(愛)とタナトス(死)、破壊と創造、天と地、男と女、童と翁を内包しながら相反するものの一致をはかり、その両極をまたにかけてむすび織りなすもの」ということが言えるそうです。この素戔嗚を構成する要素が陰陽座の核となるバンドコンセプトに非常に近いと思い至り、“素戔嗚”と陰陽座をなぞらえながら、陰陽座の音楽性の根幹を再構築しながら新たな領域にまで達することができるような楽曲を、と思って作ったのがこの「素戔嗚」です。新規導入の7弦ギターによる重厚なサウンドとギターソロ、そして黒猫の神々しく力強い歌声が、意図した通り陰陽座の新たな領域を拓いたと確信していますが、7弦ギターというギミックに溺れることなく、楽曲の展開や根本的なメロディやハーモニーによって、7弦の響きを陰陽座の音楽に取り込むことに成功したと自負しています。呪術的なフレーズの中で根源を揺さぶるような誠さんのドラムもかなりの“素戔嗚っぷり”ですね!

 


 

絡新婦 【じょろうぐも】

 

“絡新婦”という妖怪は様々な伝承に登場しますが、人間の女性の姿に化けて男を誑かし、とり殺したりするという話が多くあります。この楽曲で描いた物語は僕の創作で、ある男をとり殺そうとした“絡新婦”が本当にその人間の男を愛してしまい、とても殺すことができないと思ってすべてを白状した上で、潔く身を引く代わりに許しを請うも、騙されていたと知ったその男が逆上し、無残にも“絡新婦”と連れ子(子蜘蛛)を手打ちにしようとする話です。子蜘蛛を守ろうとして“絡新婦”は愛したその男と差し違える覚悟をします。愛あるままで愛する者から殺すほど憎まれ、またその者を殺してでも我が子を守らねばならないという、およそ想像することも拒まれるような心境を歌ったこの歌唱を正当に評価する言葉を見つけられないでいるほど、この「絡新婦」に於ける黒猫の歌の凄絶さは圧倒的に際立っていると思います。その絶唱と結末の架け橋となるギターソロも、まさに招鬼の真骨頂と言えるでしょう。もちろん、イントロからずっと歌に寄り添い、楽曲にある凄絶な悲しみと愛情を形にした阿部さんのピアノには思わず身悶えしてしまいます。ちなみに、僕は歌詞で当て字を極力しないようにしているのですが、この曲の歌詞にある“歩脚”と書いて“手(て)”と読ませたり、“子蜘蛛”と書いて“こども”と読ませたりしている部分は、この歌を唱っているのは“蜘蛛の妖怪”であるということを強調しようという試みです。それにしてもなぜわざわざ蜘蛛(の妖怪)の心境など想像する必要があるのか、と思われるかもしれませんが、人ならざるモノにも心があることを想像し、人間の視点に置き換えながらもその心境を想像してみる、という行為は、僕にとっては人間そのものの心を想像することと完全に地続きであり、所詮、他人の心を完全に推し量ることが無理なのだとするならば、人間の心も蜘蛛の心も、想像するということに於いてはまったく同じ対象だというのが“想像力過多クソ野郎”である僕の持論です。“想像力固糞野郎”ではありません。“想像力過多クソ野郎”です。

 


 

愛する者よ、死に候え 【あいするものよ、しにそうらえ】

 

山田風太郎先生の「甲賀忍法帖」、およびコミック「バジリスク〜甲賀忍法帖」を題材としたパチスロの新たな主題歌として依頼され、書き下ろした楽曲。「甲賀忍法帖」という絶対的な主題歌がありながらもう一つの主題歌を作ることができたのは、「甲賀忍法帖」とはまったく違う視点で同じ物語を描く、という突破口があったからです。すなわち、ヒロインである朧の視点で描かれた「甲賀忍法帖」に対して、主人公である甲賀弦之介の視点で描かれたのがこの「愛する者よ、死に候え」であるというわけです。原作中ではその心境をほとんど口に出さない弦之介の、胸の内を汲み取ることに心血を注ぎました。「バジリスク〜甲賀忍法帖」の単行本第2巻の172ページ(伊賀の謀略が発覚し、弦之介たちが伊賀の里から立ち去る場面)から第5巻の178ページ(朧と決着を付けることを決意した弦之介が「…剣をとれ朧」と言った後)までを描いています。アルバムの収録順では「素戔嗚」が先ですが、陰陽座で作った初めての7弦ギターの曲がこの「愛する者よ、死に候え」です。個人的にも初の7弦曲となったこの楽曲ですが、Low-B弦を最大限に活かしつつ、それでいて陰陽座のこれまでの音楽性を“変える”のではなく“拡げる”ということを命題にして挑みましたが、“其は成せり!”と言いたい出来映えだと思います。この楽曲に関しては、原作であるコミックとアニメの「バジリスク〜甲賀忍法帖」および小説「甲賀忍法帖」を読む前と後では感動度(感度?)が一億倍違いますので、何かしらの形で原作の物語にぜひとも触れてみてください。ちなみに、この楽曲のタイトル「愛する者よ、死に候え」は、コミック版の「バジリスク〜甲賀忍法帖」の叩き文句を拝借したものです。「甲賀忍法帖」の物語の根幹を一言で表現した、悶死しそうなほど素晴らしい一文だと思います。

 


 

風人を憐れむ歌 【ふうじんをあわれむうた】

 

“風人”とは歌(詩)を作る人のことですが、後世(現代)の感覚で解釈するなら“音楽を作る人”ということも当てはまると思います。僕自身がこの“風人”であるわけですが、歌を作って唱う(演奏する)という行為を生業とする人間の存在は、一般的に芸術家などという少々お高くとまった位置に祭り上げられている気がします。僕は自分のこの仕事に誇りを持ってはいますが、一般的な職業と比べて特段の優れた面や特別扱いを受けるような高尚な要素など微塵もないと思っています。それどころか、職業に貴賎なしというのが持論の僕であっても、例えば「お米を作る、それを売る、調理して提供する」というような、真っ当に社会の役に立つ仕事と比べれば明らかに価値のない職業だとすら思ってしまう瞬間があります。自分(の職業)を卑下し過ぎていると感じられるかもしれませんが、偽らざる本音です。その“風人”というものへの自分で感じる憐れさを歌ったのがこの曲ですが、これは言葉通りの卑屈な意味だけの曲ではありません。僕たちが作る音楽というものは、そのような取るに足らぬものであるはずなのに、それを心から求め、心躍らせてくれるファンの皆さんとはなんというありがたい存在か、ということを改めて心に刻みつけるために書いたものです。一般的には無価値でも、陰陽座のファンの皆さんが求めてくれるならそこに価値はあると信じられる、というのもまた本音です。そうと分かるオチを歌詞につけていないのは、結局そういうオチがあるとなると風人を憐れむ気持ちに嘘や軽さを感じてしまうと思ったからですが、そのオチとなるべき陰陽座とファンの皆さんとの信頼関係は、このアルバムを聴き終えてすぐ頭からもう一度聴いたとしたら、「迦陵頻伽」の中で改めて見つけることができると思います。ちなみに、「ふうじん」という言葉にかけて、ギターソロのバックグラウンドがそのまま「風神」(『風神界逅』収録)というインスト曲と重なっているというところに気が付いた方は、お目がトライブですね!

 

 

| - | 20:41